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現代文 読解力の講義

初めに

 この記事では、現代文の読解の基本的な方法を講義していく。

 この記事の内容は真偽がはっきりしたこと(命題)のみであるから、これを読む者すべては、自分の頭で考えて、私の考えを肯定するか否定するかしてほしい。これが、何者でもない私が尽くせる最高の手段である。

 なお、以下では「評論」と「小説」という2つに分けて論を進めるが、「評論」には随筆などを、「小説」には詩などを含むものとする。

評論

 2020年まで実施されていたセンター試験の現代文では、評論と小説が出題されていた。2021年になり、一次試験はセンターから共通テストへと変わり、「思考力を測る」という題目のもと、内容は大きく変わった。それと同時に名前が変わったものがある。共通テストの現代文では、評論が論理的文章に、小説が文学的文章になった。そう、評論は論理的文章なのである。

 ゆえに、評論の読解とは論理的文章の読解であり、論理関係の把握なのである。そして、論理関係とは、大まかに言って、「接続の語」(≠接続語)であるから、評論の読解とは、接続の語を押さえることである*1

 評論の読解は、文の論理関係と文章の論理関係を正確に読み解くことで、情報構造を把握することである。情報構造の把握は、ビジュアルでマッピング(板書するときなど)しなくとも、頭の中で描くことさえできればよい。

 接続の語には以下のようなものがある(以下で様々な記号を使うが、本来の意味とは完全には対応しない)。

  • A⇒B「AならばB」(条件)例:「だとすると」「その場合」など
  • A→B「AだからB」(理由):「そのため」「よって」「ゆえに」など

 A⇒BとA→Bの差は、Aが条件であるか命題であるかである。しかし、この差は不明瞭かつ大きくないので、まあ、ごっちゃにしてもよかろう。

  • A=A’「AすなわちA’」(換言):「つまり」「要するに」など

 A=A’とともにA⇔Bも知っておくべきである。A⇔Bは「逆説的に」「裏を返せば」などといった言葉などで表されよう。

  • A≠B「AしかしB」(対比):「対して」「そこへいくと」など

 一般に、対比を表す際に「⇔」の記号を使う人は多いが、これは「同値」を意味する記号であり、対比どころかほとんど「=」とほぼ同じ意味であるため、私はこれを用いない。

 同値を「=」で表す人は多いが、対比を「≠」で表す人を私以外に見たことがない。

 だが、この用法は実に論理的だと思うのだ。というのは、対比とは単に「AとBは違うと思う」ということしか意味しないからである。例えば、80℃のお湯と5℃の冷水は、温度の点で違いがあるが、物質という点で同じである。この2つから対比構造を見て取るかどうかは、まったくもって筆者に委ねられるわけである。

 「対比的である」とは、同じ尺度の上にあるということの証左である。「5cmのチョークと3mの黒板、どちらが長いか」と「30cmの物差しと90分の講義、どちらが長いか」という2つの題。どちらも問いの文は同じなのに前者は比較ができて後者はできないのは、ひとえに前者は同じ尺度の上にあり、後者は同じ尺度にないからである。

  • A…B「A。というのはB」(補足):「ちなみに」など

 ここに記した接続の語のなかで最も使い勝手が良いのがこれだろう。具体例などもこれに含めてよい。

 評論に具体例は必須ではない。受験生(私文除く)ならわかるだろうが、具体例を何個挙げたところで、範囲を絞らない限り、論証にはなりえない。多くの評論には具体例があるが、あれは単に読者の理解を助けようという著者の良心(もとい「売れたい」という虚栄心)の表れである。

  • A∨B「AまたはB」(選択):「ないし」「あるいは」など
  • A∧B「AかつB」(同時

 よくある「第一に」や「まず」などもこれにあたる。並置された項目が「選択」か「同時」かは文中の様々の語に由来する。

小説

 評論には主張と理由が必ずある。

 一般に、「必ず」という言葉を使うのは危険とされる。なぜならば、反例の一つでも見つかってしまえば、その論理は否定されてしまうからだ。更に言えば、その反例を自分で作り上げてしまうことだってできるからでもある。ここで堂々と「必ず」という言葉を使えるのは、主張と理由のいずれか一つでも欠いた文章は評論ではなくなるからだ。それは評論ではなく「詩」と呼ばれる。

 また、実際の評論は主張と理由だけでなく、「根拠」も含まれることがほとんどである。根拠とは、理由の肉付けとなる具体例などのことである。根拠は読解には関係ないが、答案を作るうえで必要になることもある。このあたりは「解答力の講義」で扱うことにしたい。

 ところで、先述のとおり評論は論理的文章であることが大学入試センターによって明らかになったが、では小説についてはどうだろう。

 評論とは対照的に、主張と理由がともにある文章は小説ではなくなる(その文章は評論となる)。小説は非論理的なのだ。だから、評論と同じ方法で小説を読むことはできない。

 2次試験で小説を出題する大学はそう多くはないが(約50万人が受ける共通テストでは出題されるのだが)、ほとんどの場合、文章から客観的に読み取れることのみを問題としており、小説の読解に本質的に関係がない(はっきり言って、文章の表面をなぞるだけなら、出題の意義がないとすら思うのだが)。こういう実利的なことも「解答力の講義」で扱うことにして、この「読解力の講義」では、「小説を如何に味わうか」ということを考えていきたい(こういうことは小説の評論に詳しいが)。

 小説における主張とは、極めて多様である。文章に託した社会的なメッセージであったり、筆者の感情であったり、或いは詩であれば音の響き・リズムだったりする。この講義では小説の読解の主眼を主張の把握とするが、これは必ずしも成績向上にはつながらないと考えてもらいたい。

 理由については更に複雑である。小説において、理由は限りなく少なく(時には0にも)なる。なぜか。何から何まで説明しつくした小説には、言外の深みというものがなくなってしまうからだ。それは逆説的に、説明を少なくすればするほど、読み手に責任を転嫁しながら、言外の深みというものを生成できるということでもある(これは諸刃の剣で、説明を少なくすれば、著者の意図と異なる読み取り方をする読者が増える危険がある)。

 上述のとおり、小説において理由は書かれないことが多いが、小説を適切に読むためには、理由をつかむことはやはり必要である。その手法には大別して2種類ある。それは、

  • 少ない理由を正確に手に入れる
  • 書かれていない理由を推測する(飾らずに言えば、妄想するということ)

 である。後者を詳しく言うと、

  • 感情

 人間の行動の理由は感情以外の何物でもない。

  • 風景描写

 唐突に、人間関係から脱して自然風景を描写することがあるが、あれは風景に理由を託しているらしい(私には理解しがたいが)。

  • 修辞

 よくあるのが、感情を比喩で表すタイプ。

 

 などから読み取る方法がある。そしてこの手法は主張を読み取るときにも使える。

 

 まあ私が読んだ小説なんて両の手で数えられる程度なんですけどね(守り人シリーズ館シリーズとか)。

*1:これは関係ない話だが、私は大人と子供の境界はないものと考えている。実際、近代以前に「子供」という概念はなく、それは単なる小さな大人として扱われていた。現代においても、大人と子供の違いは単に年齢では区別できないと思う。それは、ガキくさい大人・大人びた子供がいる現状が証明している。思うに、大人とは「論理的思考(=主張・理由・根拠による組み立て)ができる人間」のことで、幼年者は精神年齢(原義)が低くそれができないことが多いために、全体としては幼稚だとみなされるが、それでも個々のレベルでは確かにそれができる者もいるということだろう。そして、大人びた子供は自らを一緒くたに子供と扱われることにやきもきするのであろう(そもそも真に論理的思考ができる子供は本当に限られた数しかいないのだが。たいてい理由が主張と同一化したり、根拠がぬけたりする)。